平田オリザさん、兵庫県小児科医会40周年記念講演会の要旨です

「わかりあえないことから」といういつものタイトルで、豊岡の芸術文化観光専門職大学の平田オリザさんがお話してくださいました。どぞ。
兵庫県小児科医会設立40周年、誠におめでとうございます。今年の夏から秋にかけて、医療系の大きな学会に毎月のように呼ばれており、医療におけるコミュニケーションへの関心の高さを感じています。私は劇作家で、現在、豊岡市にある芸術文化観光専門職大学で初代の学長をしています。但馬圏域に初めて開学された4年制の小さな大学(1学年80人)です。全国から優秀な学生(85%は県外からの女子)が第一志望で集まってくれて、演劇や文化観光を学べる日本で唯一の公立大学です。なぜ、芸術と観光なのか?とよく尋ねられます。文化観光の中でも、日本が弱い芸術文化の人材を育成していく大学と理解して頂ければと思います。世界では文化政策と観光政策は一緒になされていますが、日本だけは文化庁は文部科学省、観光庁は国土交通省と、まったく省庁間での連携がなされていません。それでも最近、日本ではインバウンドが急増し、オーバーツーリズムとして問題になるくらい、関西も観光で潤っています。一番の要因は円安と東アジアの経済発展です。中国や東南アジアに10億人に近い中間所得層が生まれています。大体、年間所得が400万円を超えると海外旅行に行き始めるというデータがあります。かつての日本もそうでした。彼らが初めて訪れる外国として、近くて安くて安心安全な日本を選んでくれているのですが、富士山や姫路城といえども、何回も見たくはありません。今後、リピーターとして日本に来てもらうためには、食やスポーツ、さらには演劇のようなコンテンツが重要となってきます。アメリカのブロードウェイやウィーンのオペラ座のように、安心して家族で何度も楽しめる文化観光が大切なのです。観光して、宿泊して、参加型の体験で消費もしてもらう。神戸は地域的に多くの世界遺産に囲まれ、神戸ビーフや夜景という圧倒的なコンテンツも備えているので、音楽、ミュージカル、演劇など、夜の文化観光に特化した、さらにハイカルチャー・ハイスペックな街を目指すべきです。

本題に入りますが、私は県内の学校へ演劇の授業にも出向いております。最近の若者はコミュニケーション能力が低下しているとよく言われますが、そうではありません。まず理解してほしいのは、日本社会の少子化、核家族化、兄弟の少なさ、他者との接触が圧倒的に少ないために、彼らはコミュニケーションをする機会が持てていないだけなのです。授業で使う教材の一つに、列車の中で他人に声をかけるというスキットがあります。乗り合わせた人に「ご旅行ですか?」と話しかける簡単な設定なのですが、高校生にしてもらうと、まずうまくいきません。今どきの高校生は列車で長旅をする機会がほとんどないからです。隣に乗り合わせた人に、話しかける・話しかけないは、もちろん状況によりますが、じつは相手によります。日本では、「自分から話しかける」に手を挙げるのは全国的に約1割です。大阪だけ若干高いのですが。エクスペディアの調査によると、海外旅行で知らない人に話しかける比率、日本は世界で最下位の15%、インド人が最も高く60%でした。アメリカやオーストラリアの方はすぐに話しかけてきます。これは、開拓からの歴史が浅い、多民族の国では、相手に敵意を持っていないことをいち早く伝えて安心したいからです。日本は島国、村社会、皆でのんびり暮らしてきたので、逆に知らない人から話しかけられると緊張してしまいます。では、すぐに話しかけるアメリカ人はコミュニケーション能力が高くて、日本人は能力の低いダメな民族かというと、それは違います。単なる文化の違いなのです。日本や韓国は敬語が発達しているので、すぐに話しかけるのは失礼になるのですが、話しかけるのがマナーだという国もあるというわけで、コミュニケーション能力の優劣の問題ではありません。普遍的なコミュニケーション能力なんて無いのです。本当に必要なのは、文化の多様性を理解すること、自分の背景や文化を相手に押しつけない謙虚さを持つことです。

 次に、話し言葉の個性、コンテクストについてお話します。Contextとは本来、文脈という意味ですが、演劇では「その人がどんなつもりでその言葉を使っているか」の全体像を指します。「ご旅行ですか?」という簡単な台詞は、高校生にとっては日常で使ったことがない、彼らのコンテクストの外側にある言葉です。そんな言葉をコンテクストの「ずれ」といいます。まったく文化的な背景が異なるコンテクストの「違い」より、その差異が見えにくい「ずれ」の方がコミュニケーション不全の原因になりやすいです。ロシアの近代戯曲の父、チェーホフの演劇の中に「銀のサモワールでお茶を入れてよ」という台詞があります。サモワールでお茶を入れたことがある人、日本にはほとんどおられないので、コンテクストに「違い」があるわけです。意味のまったく分からない言葉に出会ったら、まず、サモワールについて調べるでしょう。でも、旅行ですか?の意味は誰でもわかります。深く考えずに言ってしまうから、存外、上手くいかない。日常会話の中にこそ落とし穴があり、相手ならわかっているだろうと思っている時ほど誤解は生じやすい。医療でも、難しい医学用語だと患者さんは知らないだろうからと一生懸命に説明されるでしょう。でも簡単な言葉は相手も理解できるものとして話してしまいます。それと同じです。コンテクストの概念は、人工知能や人工言語の分野でも注目されています。コンピューターは情報の価値判断が苦手だからです。たとえば、小学1年生のお子さんが学校から嬉しそうに走って帰って来て、「今日、僕ね、宿題をやってなかったのに、平田先生、全然怒らなかったんだよ」と言いました。さて、あなたが親なら、なんて答えますか?という問いに、コンピューターなら「宿題はやらないとダメ」とか「儲かったね」程度の回答しか返ってきません。本当にその子が親に伝えたかったのは、「平田先生は優しいなぁ、だから僕は平田先生が大好きなんだ」という思いです。良いコミュニケーションとは、子どもが真に伝えたい気持ちを理解して、受け止めているというシグナルを出すことです。コンテクストを汲み取って答えるには、「あぁ、平田先生は優しいね。でも次は叱られるかもよ」くらいが正解です。人間と同じくらいコンテクストが理解できる人工知能の開発には、あと30年は最低かかります。すなわち、私たちの生きている間は、医療、教育、育児、介護は、ロボットやコンピューターに助けられたとしても、人が直接的にやらざるを得ない分野なのです。

そこで医療現場でのコミュニケーションです。患者さんが「胸が痛い」と訴えた場合に、「大変だ、先生を呼んできます!」と看護師がパニックになるのはあまりよくない対応です。まず、「胸が痛いのですね」とオウム返しをして、傾聴していますよというサインを出すのが、患者さんを最も安心させる対応です。ホスピスに50代の働き盛りの男性が、癌で余命半年の宣告を受けて、入院してきました。奥さんが24時間、つきっきりで看病しています。抗がん剤がなかなか効かない、痛みがとれない。奥さんが毎日のように質問をします。何でこんな薬を使うのか、なぜ痛みがとれないのか。担当の看護師さんが懇切丁寧に説明をして、その場では納得されますが、翌日になると、また同じ質問が繰り返されます。そんなクレーマーのような状況が1週間以上も続いたある日、ベテラン医の回診の際に、やはり奥さんが「なぜ効かないのですか!」と医師にくってかかりました。その医者は、ひと言も説明はせずに「奥さん、つらいねぇ…」と言ったそうです。奥さんはその場で泣き崩れましたが、翌日から二度とその質問はしなくなった。要するに、奥さんの聞きたかったのは、薬の効用などではなく、なぜ自分の夫だけがガンに冒され、死んでいかなければならないのか?を誰かに訴えたかった、問いかけたかったのです。そんな問いへの答えを今の近代医学は持っていません。近代医学は「How」や「What」についてはけっこう答えられるけれど、「Why」についてはほとんど答えられない。医者や看護師なんて、昔は病気やケガを治してあげれば、患者や家族からも感謝された、いい商売でした。貧乏だったけれども、誇りの持てる仕事でした。でも今は、医療が高度化しすぎて、治すこと自体が非常に複雑になってしまっています。患者や家族の気持ちも複雑で、少しでも長く生きたいのか、痛みを緩和したいのか、家に帰りたいのか、職場に戻りたいのか、家族と一緒にいたいのか、場合によっては毎日のように思いも変わる。そんなコンテクストをできるかぎり上手に汲み取れないと医療行為にあたれないという時代になっています。

最後に、大阪大学で教えていたコミュニケーションデザインについて話します。大学ではグローバルコミュニケーションとリーダーシップ教育が声高に叫ばれています。リーダーシップとは、人を説得できる、力強く皆を引っ張っていく能力のことを指しますが、これからの時代に必要なのは、弱者のコンテクストを理解できる、小さな声を聴く力が鍵だと思っています。患者や子どものような社会的弱者は理路整然と自分の気持ちをまわりに伝えることができません。今の学生には、ペラペラ流ちょうに説明できる能力を身につけるよりも、論理的に喋られない立場の人々の気持ちを汲み取れる人間になってほしいと願っています。コンテクストを理解するという基礎的な能力は、皆がそれなりに持っているものです。問題の多くは個人の能力ではなく、組織やシステムの側にあるのです。医者の説明の仕方はもちろん重要ですが、同じくらい大切なのは、場作りです。患者さんが医者に質問しやすいような椅子の配置になっているか、壁の色はどうか、天井の高さはどうか、受付から診察室までの道のりで緊張しやすくなっていないか、これらすべてデザインの問題です。医療過誤が起きにくいような組織になっているか、情報が現場から上層部にきちんと伝わるか、組織や情報のデザインです。さらに、病院の建物自体が患者さんを威圧していないか、病院は街のどの辺にあるのか、建築や都市づくりのデザインです。患者とのコミュニケーション不全の原因はいくらでもあるわけで、落とし穴は意外な所に掘られています。原因と結果を一直線に結びつけない考え方を「複雑系」といいますが、コミュニケーションの問題を複雑系の視点で捉えたのが、コミュニケーションデザインという新しい学問領域です。演劇での本当の仕事とは「普段、私は他人には話しかけないけれども、話しかけるとしたらどんな自分だろうか」と探ることです。自分の個性と演じるべき役柄の共有できる部分を捜し出し、それを広げていくという作業です。この考え方は教育学でも注目を集めていて、「シンパシーからエンパシーへ」と呼ばれています。私は「同情から共感へ」とか「同一性から共有性へ」と訳しています。小中学校の総合学習で、いじめのロールプレイがよく行われていますが、経験の浅い教員ほど「ほら、いじめられた相手の気持ちになってごらん」と子どもたちに声をかけます。いじめられた子どもの気持ちがすぐにわかるのなら、おそらくいじめはあまり起こりません。いじめられた子どもの気持ちなんて簡単にはわからない。でも、いじめっ子にも他人から何かをされて嫌だった経験はあるでしょう。いじめといじりと遊びの違いでコンテクストのずれが起こっているのを「それは、じつは似たものなのだよ」と結び付けてあげるのが、本来のロールプレイの目的です。医療や福祉や教育の実習現場で、多くの若者が「患者さんの気持ちがわからない」「障害も持った人の気持ちを理解できない」と心が折れて、その世界を去っていきます。まじめで優秀な学生ほど、その傾向が強い。でも、本来、患者さんや障害者の気持ちと同一化することは非常に難しいことです。理解できると言いきる方が傲慢です。でも、患者の痛みや障害者の苦しみや寂しさを、何らかの形で共有する、わかりあえることはできるはずです。私たちの中にも、それに近い痛みや苦しみがきっとあるはずだから。異文化と接触する際に、同意はできないけれど、理解するように努めるというのがエンパシーです。小児医療の現場でも、兵庫県の作ったアートを学ぶうちの大学をぜひご利用して頂ければと思います。本日はどうもありがとうございました。

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