7年前から姫路市総合教育センターへ、毎月1回、出務をしています。相談されたケースへの対応について教育センターのスタッフへいろいろと助言をしています。
教育には、「教える器量」と「育む度量」が必要です。
わかりますかね?
子どもたちに教えるのには、自分が知っている知識だけでなく、子どもたちの脳や心に届くための技術がいるということです。要領よくわかりやすく教えるスキルを器量といいます。もちろん、いくら上手に教えても、理解してもらえないことも多々あります。最近の大人、とくに先生は教えることしかできていない、本来、教育者とは「教え、育む者」をいうのだと、河合隼雄先生もよく書いておられました。
育むというのは、待つことです。教えたことがその子の中で血肉化する。
芽を出して、花になり、実を結ぶ、すぐに結果なんて出ません。育む側にひたすら信じて待てる度量が必要ということです。大人もなかなか待てない社会、待てない先生もずいぶん増えているんですけどね。
じつは、教育って、その国の文化や産業、時代背景も大きく影響します。
私たちが子どもの頃には、学級通信のタイトルや教室名には、わかば、めばえ、すぎのこ等の植物用語がよく使われていました。子どもの自然な成育過程は、農作物の栽培と同じで、人智の及ばない、お天道さま任せという感性があったのでしょう。
しかしながら、基幹産業が農業から工業に移り、効率よく精巧な規格品を製造することが主流になりました。それにつれて、こども園や学校もまるで株式会社のように経営され、PDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクルを回し、子どもたちのQCD(質・コスト・納期)を最大にするべく、努力させるのが教育の目的みたいになってきています。規格に合わない子どもたちは急増し、心の問題や不登校は深刻になってきています。授かった命を感謝するより、どんなモノに作り上げるのかが子育ての最重要課題となり、効率化や迅速化も避けられない状況です。
さらに、今後、産業が製造業からIoT化へと進んでいくと、いかに仮想の中で、リアルな教育をしてなくても、早く、ちゃんと、効果的なことをしたようにみせるかの競い合いになりそうです。こわいな~
どんな組織の運営でも、経費と収益の収支バランスを考慮する必要はあります。でも、本来、社会的公共資本といわれる医療、教育、行政などは金儲けをする所ではありません。こども家庭庁ができて、みんなの税金から教育や保育に莫大なお金が流れていますが、結局、幼児教育の専門でもない、自分たちが商売をしたいだけの欲深い大人が子どもの教育に関わるというのは本当にやめてほしいと、全国塾チェーンのCMを見ながらいつも思っています。
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